今という時代に語る ということ

「文字」と「言葉」が違うものだ、ということを、
私はつい最近知りました。

それを知るにつれ、よくわからないが、すごくすごく大切なことだ、
と感じました。今の世の中にとっても、私自身にとっても。

この「文字」と「言葉」、そして「語り」というものがある、
とそもそも教えて頂いた「語る人」、中川哲雄さんに、
1年半ほど前、いろいろとお話を聞いてみました。
のを、いろいろあって、やっと最近、起こしてみました。

中川さんが「語り」について話すとき、
私は、日々の仕事やくだらない感情やTwitterとか(笑)からは
解き放たれた、とても自由で明るくて広い世界を感じます。

そして、こういうことについて説いた本は多くありますが、
なかなか、ここまでわかりやすくはないかも? と思い、
このブログに載せてみます。

—————————————-

―このあいだいわゆる「語り」と「語り以外の言葉」っていうのがどう違うか、って話を、聞いていたと思うのですが……。いわゆる、例えば世間話も、ストーリーがあるといえば、あるじゃないですか。

本当に、論理的なはなしがどうしてもできない話題だと思うんですけど……。「伝えたい」という思いをいかに込めるか、っていうのは、非常に大切だと思うんですよね。つまり、自分のパーソナルストーリーを人に伝えたい、っていう語りも、あると思うんですよ。

―それも、語りの一種?

語りだと思う。うん。「伝えたい」という思いが強くなればなるほど、なにかは、込められると思うんですよね。だから別に、昔話じゃなくてもいい、とは思う。でも、昔話っていうのは、昔から何かしら伝えたいと思った人がずっと伝えてきたわけじゃないですか。だから、その思いはずっと、込められている、というか。

―それって、語ることによって、前の人が伝えたいって思ったことが、ずうっと積み重なっていくの? それで、また今語ることによって、語った人の思いがまた乗っかって次に行く……?

僕はそう思います。

―すごいですね。それで、以前、語りを聞くと想像力? がつく? っておっしゃってました?

想像力がつく、というか、刺激されるんじゃないのかなって思うんですよね。人は、みんな想像力は持っていると思うのだけれども……。

―手や足など、体の機能と同じように、十分に使えていない…?

そう、そうなんじゃないのかな。だから…そういうことをようやく僕自身も確信に近いものが持ててきたので「囲炉裏端(語りのイベント)」は想像力を刺激できる会になればいいんじゃないのかな、と思っているんですよ。情報とか知識はまず、おいておいて……。僕も最初、何のためにやるのか、集まった人に何かしら来てよかった、という風に思うのが、どうすればいいのかな、と試行錯誤だったけど……。

―この間、この「想像力」のほかに「創造力」も刺激されている、って言ってませんでしたっけ……。「想像力」のほうはわかったんだけれども「創造力」も、刺激されているんでしょうか?

それも刺激されないかな? 語る人が語っている世界と、聞いている人が喚起されて、作り上げた世界、というのは、同じものではない、と思うんだよね。だから、聞いている人もいわば「世界を創っている」といえると思う

―私……『はてしない物語』って、そのものの話ですよね。本の中に、この現実世界とまたまったく別の世界がある、という。私は、あれはずっとリアル感はなかったのだけれども。あるとき、読んだ本の世界にトリップしちゃって、物語の中で吹いている風を肌の感触として感じた、みたいな出来事があって……。あれは本当にある世界なんだなぁ、と……そういう意味で、怖い(笑)

怖い? でも、うまくいえないけど、ああいう世界を感じることって……いらない?

―え? いる?

いる、と思って僕は思うんですよ。と、思ってやってますね。……結構、難しくなってしまっているからさ……そういう世界に感じるというかひたれることが……今の時代は。

―そういう物語の世界とともに、昔の人は生きていたのかな?

生きていただろうね。 

―……大人も子どもも?

じゃないかね。……語ることでそういう世界を作り出していた、っていうのもあるかもしれないけど……周りじゅうがそういう世界だったのかも、というところもあると思うから……とくに、古代のかたがたはさ……

―……周り中が? そういう世界って?

……神話の世界、みたいな……例えば、木を見たときにもしかしたら「この中に何かの魂が居るかもしれない」って思うこともあると思うんですよ。でも、今の時代だったら、「何か居るわけない」ってばっさり「思った」ことを切り取ってしまう、っていうのが一般的なモノの考え方だよね。けれど昔の人は「何か居るかもしれない」という思いに今よりも素直だったんじゃないかな……忠実というか。「何が居るんだろう、でも間違いなく何か居る」。で、そういう世界に生きている人たちが作った話が今まで残っていたりもするじゃない? だから、その時期の人たちは、語ることでそういう世界に行けた、というわけではなくて……

―その世界観があったから、逆に「語り」というものが普通に社会に組み込まれていたわけなんだ……

でも、今の時代「木は木だ」っていうのと同じように、語りまで「ない」っていう風にされちゃうとねぇ……もったいないと思うし……で、今現在「木は木」という感じは変かもしれない、という時代にまた戻りそうになりつつあるから……今語ることは、面白い、と思うんですけどね。

―……その、語りによって生まれる世界が、なんで、人にとって必要なんでしょうか

……(笑)それを言ってしまうとなぁ……うーん、人ってそういうもんなんだよ。

―そうなの?

「この木に何か居るかもしれない」という感覚を無視しては生きて行けないものなんじゃないかな、と思うわけですよ。で、そこを否定しては……。

―そうか……そこを無視すると……ストレス……になってるんだね?

なって……ないかね?

―なってるんだよ……ね?

なって……るんだと思うよ(笑)。あの……身もふたもない言い方になるけど、やさしくなれると思うよ。結局、「木が木にしか見えない」のなら、道具も道具でしか見えていない、というのが今の社会じゃないですか。それが、人でさえも、道具に見えてしまう、というか。

―そうだね。リストラ、とかね

会社の歯車、とかね。でも「ここに何かがある」と、思うようになったら……自分が小さく見えるんじゃないかな。まわりの人でさえも自分のための道具、という風に見えている人は、自分が大きく見えているんだと思うんだよね。

―そうか。普通、人って自分の頭の中にある世界が世界そのもの、っていう風に思うけど……自分以外にも世界がある、自分が知りもしない大きな世界の一部でしかないっていうことを実感する……ってこと?

あとは……エコロジカルになれるしね。

―え?

木、切りたくなくなるよ(笑)。

―ああ、そうか

だから「語り」というものが、そういう「ものがたりの世界」を喚起する、ひとつの手だてになるんじゃないんだろうか、っていうね。

広告

今という時代に語る ということ」への1件のフィードバック

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中