原発事故と「いま、ここ」にいるわたし(@関東)

原発が爆発したとき、私は東京に居た。
当時「マンションの活性化」ということをしていて、
マンション内にかつてはなかった集会所を作り、
そこでご飯を作ってみんなで食べたり、イベントをしたりしていた。

震災が起こった直後、2011年3月14日だっただろうか。
「電車も止まるかもしれないのに…」と家族の反対を押し切り、
マンションで「コミュニティランチ」の準備をしていた。
(前日には、こんなブログも書いていた)

原発が起こった今だからこそ、みんなの無事を確認しあい、
「怖かったね」って言い合わなきゃいけないと思ったからだ。

これをきっかけにして、マンションの人たちが顔なじみになればいいと思った。

ごはんを作っていたら、このチームのリーダーの方が、
「原発、爆発したって」
と言った。
「えっ!」と言って、そこに原発はないのに、
思わず窓辺に走り寄ろうとした。

その頃から、気になっていたことがあった。
一緒に盛り上げようとしていた仲間の人たちが、
いわゆる「環境系」の人々が集まるメーリングリストに
「あぶないです、逃げてください」
と、ずっと投稿していたことだった。
今こそ、マンションに集中して、
不安な人たちの心に寄り添って、
みんなで心を合わせなきゃいけないときに、
何やってるんだ?

ランチは開催され、
集まった人たちの話を聞くと、
東京は建物がみんな高いし、
荷物が崩れたところも多かったみたいだ。
うちは、家族で、地震があったときは外だったからよかったけど、
一人暮らしで、室内で居た人の怖さははかりしれないと思った。

結局、5人いたチームのうち、2人が、東京を離れた。

それから、なんとも私は納得できず、
ずっと考えていた。
もやもやもやもやしていた。

日々夫とともに、パソコンに向かい、情報を収集し、
拡散し、というむなしい作業を続けながら。

なぜ、子供がいる私はここに居て
彼女たちは避難したのか。

ずっと考え続けた。
たとえば、「いまこそ地域の人たちと話し合い、力を合わせるときだろ!」と思ったこと。
たとえば、父母が病気で、旅行などできるからだではなく、
病院の送り迎えなどもときおり夫がしていた。
そして、その父母から借りている一軒家を手放すわけにはいかなかった。

…いいや、ちがう。

「今回はそれほどの被害ではないし、大丈夫、
そして、それよりも、この事故を起こした自分の心をみつめなきゃなんない
ということが、今回の事故に対する自分の課題だ」

という意味のない確信があったからだ。

そして、私が偏愛している「情報に対する態度」
というものがあって、
その「態度」をしている人が「それほど影響はない」と言っていて、
私が嫌いな「情報に対する態度」をしている人が、
「被ばくします! 奇形児が!(とか、たとえば)」
言っているからだった。

子供のころから「世界滅亡」の夢をたくさん見て、
「はだしのゲン」の影響で原爆を怖がり、
放射能や原発について調べたりしたこともあり、

小学生のころから、原爆被害を逃れるために、
「トマホークを上空になるべく早く発見し、逃げる」
自主避難訓練(笑)をこなしたり、
「緊急避難用袋」を準備していたから、
そんな自分に意味のない自信があった 笑
だから、そう思った。

そして
「そんなに簡単に環境を変えたくない。
変えてどうするんだ? 仕事は? 家は?」
という思いもやっぱりあった。

やっぱり、わたしのまわりの方々は
環境問題寄りの方々だったから、
比較的避難する割合が多かったと思う。
だから
(子供が居るのに避難しないの?! 人でなし! 人殺し!)
と思われてるんだろうなあ、そのくらい思われてもしょうがないなあ、
と思っていた。

その後、
「ここに居る」人たちにあちこち出かけた先で話を聞いた。

友人たちと集まって、丈夫な家に避難していたが、
ある日起きたら、自分以外はみんな別の場所に避難していて
家に一人だった人。

家が釣り船屋で、津波が来るとの知らせを受けて、
船を沖へ、
津波を向けて出した、
まだ船は見習いの夫を陸で待つ奥さんの思い。

そのときにしみじみといいあったのは、
「震災前までは、もっとみんな同じ人間で、
同じ意見を持った人たちだと思っていた。
でも、違うんだね、みんな一人一人違う。
それが、今回一番わかったこと」

ということだった。

ネットに流れてきた言葉に、
こんなものがあった。

(概略)「いままで、災害があったときに生き残った人は動いた人。
動かなかった人はそのまま死んだ。
つまり、常に動く人こそ、これからの時代を生き残る人である」

ああ、なるほど…と思った。

つまり、私は「死ぬ」し、
「これからの時代」も作らない、
ただうたかたのごとく生きて死ぬ存在なんだ…。

わかってはいたことだったけど、
こう、自分を認めるのは、
かなり苦しかった。

移住した人たちが、
イベントやったり、なんか地元ならではの、
体によさそうなものを食べたり、
「やっぱり田舎っていいね!」とか言ったり。
いろんなことを地方で活性的にしているのをよそめに、
なにもできない、毎日ネットして
ときどきとちくるったように福島のきゅうり50本とか買って、
ネットの情報を集めて福島の避難所に送ってもらったり…。
そして、息子の面倒だけ見ている自分に、がっくりきた。

俺は、間違ってる。
みなが楽しく生きれる
「新しい生き方」を、自分で体現したいのに、
移住できない自分は、
もう、全然「新しい生き方」なんかしてない。
生きていく価値のない人間だ。

と、思った時期もあった。

…でも、やはり。
それでも生きていかねばならないのだとしたら、
自分の生き方に「YES」と言わなきゃダメだろ。
たとえ、泡沫だとしても…
自己弁護だとしても…、
無理やりでも…、
肯定したい…。

と思った。

そのうち、考えていくにつれて、
反感しか持っていなかった「移住組」の人たちのことを、
気にするのはやめよう、と思った。

そして、自分の中で、
「なぜいるか」という答えを
つくっていった。

●わたしは、今回の原発の事故によって、
ここにいる私と、そして家族には、
はっきりとわかる人体への影響はないと
確信している。
しかし、真実は、これから長い間の観察によってでしか、
わからない。

もし、避難した人が生き延び、
そして避難しなかった私が死ぬのなら、
避難しなかった私も私として、
きちんと結果を残して死にたい。

そういう、
「人間という種族の、大きな試行のなかでとった、ひとつの選択肢」
なんだと思って生きていく。

だって、わたしは結局はたくさんいる人間の
うちのたった一人でしかないから。

なんにしても、「ここにいつづける」ことで、
結果を出したい。

そうやって考えてみると、
それぞれが、移住した人もしていない人も、
そして、どっちでもない人も、
ひとりひとりが「試行のひとつ」なのであって、
別に誰もが裁かれたり、ののしられたり、
する必要がないんだと思った。

人生は答えはない。
逆に、自分で答えを作って、自分で立証していくのが人生だと思う。
でも、いままで、なんとなく「社会」には答えはあった気がする。
でも、この原発事故で、完璧に「社会」の「答え」はなくなって、
全員が「自分で「社会」の答え」を考え、
自分なりに立証していく時代になったんだと思う。

そう思ったときに、冒頭のマンション活性チームで、
移住した人から事務関係のメールがあって
返信していたら、

「地震があった直後からどうにも具合が悪くなって、
動けなくなった。ここを離れざるをえなかったんだ。
心が苦しかった。」

ということだった。

かつて、体の症状で苦しんでたのを聞いたことがあったし、
本当にそれはしょうがないと思った。
彼女の苦しさを思って、ちょっと涙出た。

みんな、苦しかったんだ。
ほんとに。

☆これを機に、「ひとりひとりが違う」ことを改めて確認して、
「みんながそれぞれの道を(自分と主義主張が違っても)応援する」
世の中になっていくんだろう。
と、せめて、私は願う。

—————————————————–
今、震災や原発事故に対して
「●こう思ったので、私はこういう行動をとった」
そして
「☆こういう世の中になればいいと思う」

という文章を、みんなが少しずつ表明して、
それで、みんなで認め合えれば、
いまだある「放射脳」とかっていうレッテル貼りは、
なくなっていくし、
けなしあいじゃなくて、本当に冷静に「みんなが一緒に進める未来」
を、描いていけるんじゃないかなあ、って、今、思っています。

もし、今まで書いてなくて、気がむいたら
書いていただき、
このページにトラックバックとか、
(というか、何かしら私に知らせて頂けると)
いただけるとうれしいです。

もしよかったら、Facebookなどでみんなにシェアして、
それぞれが、自分の生き方に本当に自信を持つための一助になれば、と思います。

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